「運」が良かった悪かった。
何かいい事があると、「運が良かった」という言葉をよく聞きます。「運」とは、私達現代人はどういう概念と感覚で使用しているのでしょうか。物理的に確定した要素と根拠で使用しているでしょうか。私はそうは思いません。解明できない不確定な要素に対して、「運」という言葉でつじつまを合わせて理解している様な、そんな感じがします。悪く言うと、現代科学レベルがその程度なんだとも受け取る事が出来ると感じます。
「運」は積み重なった過程の結果
歩行中に溝にはまり転んだとしたら、「運が悪かった」と処理をします。しかし考えてみれば、幼少期から育ってきた骨格による歩幅と、体力の消費量や、履く靴の趣味などの原因要素を組み込んでいくと、靴を履いて外を出て従来の歩幅と歩行速度から算出すれば、数m先の溝にはまる未来は計算で導き出せますよね。現代ではこれは「こじつけ」と感じるかもしれませんが、数世紀先の未来では計算式が確立し、AIによって危険予知システムが確立しているかもしれません。不可能ではないと思いませんか。
今の”常識”と数世紀前の”概念”の違い
数世紀前は「病気は悪霊に取りつかれた」と本気で思っており、祈祷師による徐冷が行われていました。それから少し経った後でも、「頭痛は脳に居る悪霊を出すために頭蓋骨に穴をあける」といった処置がされていた程です。これは、当時での科学力では病原菌やウイルスといった存在が認知できず、更に体の不調に対しても医療の知識も何もなかったからです。そこで彼らは、それらの体の不調につじつまを付ける為に「悪霊」という概念を作り、体調不良を納得してきました。さて、この認識と、現代の不確定要素を「運」と片付ける行為に、大きな違いはあるのでしょうか。
悪魔と神様
少し話はズレるかもしれませんが、私は神様と悪魔は、悪魔の方が先に出来たと思います。不作や体調不良等の悪い事が発生し、それを悪霊やお化けのせいにしてきたのでしょう。それに対して、良い事をもたらせてくれる存在も必要になり、神様や仏が出来たのではないでしょうか。いきなり神様や仏が存在する場合、切っ掛けがイマイチ思いつきません。悪い事があったから、それを救う救世主を造ったんだと思います。正直どっちでもいいんですけどね。ただ私は個人的にそう思いました。
「運」という概念の解明はいつか
病気の概念ですら、解明されるのに1000年近くかかっていますからね。「運」という概念は、次元をもう一つ越えるくらいの革命が無ければ解明されないかもしれません。でも問題は膨大な計算や資料であり、それらさえクリアすれば行けると思うので、あとは切っ掛けだけな気もします。そうしたら、手の大きさや天候や気分や箱内の物理現象によって、おみくじで何を引くかなど完全に予見できてしまう未来が来ますね。そう考えると「運」というあいまいな概念で一喜一憂している現代くらいが一番楽しいのかもしれません。
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