最悪の結果がなければ、悪い過程の対応は評価されない国

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最悪の結果には、前兆や原因の予兆がある

何か最悪の結果に発展する時というのは、何かしらの悪い状態が存在します。人はそれに対し、楽観視して対応しない場合が多くあります。また、対応したとしても「もったいない」とか「そこまでする必要があったのか」など、周囲の評価は悪くなる場合さえありますもしかしたら、この初期対応が、なければ最悪の結果に繋がったかもしれないですが、れは実際に最悪の結果が発生した未来でしか評価されないのです。

コスト面の問題判断は非常に難しい

業者や企業がコストを理由にある程度の線引きを行い、点検や交換を見送る場合があります。それに対して理解はできます。しかしそれが大事故につながった例はいくつもあります。例えばトンネルの落盤事故ですが、点検や交換の判断に誤りがあり、大きな人身事故に繋がったわけです。これに対して遺族は、企業を責める権利が絶対的に確実にあります。しかし、第三者に限っては、その誤った判断をした結果のみ非難する権利はありますが、企業の存在自体を罵倒する権利まであるのでしょうか。それは結果論ではないでしょうか。

トンネルの点検する場所はトンネル自体だけではない

消火設備や道路の状態、空調や照明など多岐にわたります今回はトンネルの天井に不備があったに過ぎず、もしかしたら消火設備の不備で事故車両が大炎上したかもしれないし、照明の不備で大事故が起きたかもしれないです。だから「なんでトンネルの天井の点検判断怠ったの!?」と第三者が結果論で非難するのは疑問がります落盤すると分かっていたら業者も当然補修します。コストやリスクから判断した結果起きた事故です。どこで何が起きるか分からなかった状態の業者の判断結果と、事故が起きて不備がピンポイントで分かってからの第三者の指摘はまったくフェアではないです。それを結果論で完全非難する権利があるのは、それにより被害を受けた被害者やその家族だけです。

原発事故でも最悪の結果と結果論

そもそも源生圧事故を起こさない管理するのは企業の絶対的な責任であり、義務であることは前提としてお話させていただきます。

今回は原発事故で水素爆発を起こし、最悪の結果に

しかしもし、圧の高まった空気を逃がす「ベント」をしていたなら、今よりずっと小さい汚染範囲で済み、水素爆発もしなかったかもしれません。しかし「ベント」は出来ませんでした。それは、水素爆発という最悪の結果があって初めて悪い結果のベントが評価されるからです。もしベントして水素爆発が起きなかった世界線があったとしても、ベントという、水素爆発とは比べ物にならないくらい最小限に抑えた被害対応を評価する国民は1人たりとも存在しなかったでしょう。国民が企業の話をしっかり聞き、評価するところはしっかりしていたなら企業はベントに踏み切れたかもしれません。よくブラック企業と言いますが、国民が訴える嫌いな上司像は、企業や国に対し、しっかりそのまま同じなわけですね。

非常用電源の置き場所の非難は結果論か

「なんで非常用発電機を地下に置いた?」という批判を1,000回は聞きました。内容は正しいです。正しいですが、それは結果論です。もし火山が噴火して、非常用発電機を建屋の2階に置いていた世界線があったとして、火山岩が直撃し2階にあった非常電源が壊されメルトダウンした世界なら、国民は「何故非常電源を2階に置いた!?」と結果論で怒っています。確実にです。どこに置こうが何かしらのリスクが存在します。今回はたまたま津波だったに過ぎません。確かに確率が高かったのはあると思いますが、火山や隕石が0%とは言い切れません。勿論、企業はそれでも責任と賠償を負う必要があります。それが会社です。それは絶対です。しかし、国民側に、自分達が結果論を言っているという自覚がある様に感じません。その主張は本当に正義で正解でしょうか。自分達は完璧にできるのでしょうか。難しい話だと思います。

感情だけで結果論の批判をするのは悲しい

落ち度や過失のある対象を非難する事自体は本人の為にも正しい事だと思います。しかし、自分は出来ているのでしょうか。結果論になっていないでしょうか。自分を思い返して相手を叱ってあげる事が最も理想だと思います。とても難しい話だと思いますが。

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