全ての事象は公平な判断が絶対
何か事件があったとして、その事件は、最初の報道の時点で「被害者とされている者」が”絶対的被害者”と認知され、少ない段階の情報にも関わらず、判断され世論が動きます。その時に「加害者とされている者」は”絶対的加害者”と認知され、少ない情報の段階にも関わらず、判断され世論が動きます。それは平等と言えるでしょうか。法治国家において、その時点の判断で、しかも第三者が早々に判断していい段階でしょうか。
万物には過程や切っ掛けが存在する
最初の一報で、とりあえず加害者と被害者が分かれていて、大まかな事件の概要が出ていれば、感情に従って加害者を叩くのは至極簡単です。しかし、被害者とされている側に「落ち度が一切ない」場合と言うのは稀です。被害者とされている側にも少なからず落ち度があり、その情報を引き出すためには、加害者の意見も聞くべきです。何故ならここは法治国家だからです。しかし、こういう話をすると、多くの場合「何故加害者を擁護する!?」と激しく攻撃を受けます。加害者とされている側には、発言権すらないのでしょうか。しかも、加害者側の話を聞かず、根本の解決に至る事が出来なければ、また同じ事件は必ず起きます。何故なら、加害者とされている側を一方的に罰して強制終了させる事になるからです。私は間違った事を言っているでしょうか。
マスコミの報道に踊らされる世論
マスコミの報道により、世論は簡単に操作されます。それはそういう報道をしているからです。私が感じる限りでは、それもマスコミ側は無意識にしている場合が多いです。例えば現在のニュースで、マスコミは、ロシア大統領が絶対悪と報道しますが、そこに至るまでの過程を平等に報道しません。勿論、どんな理由があろうと、軍事進攻は容認されるものでは無いです。しかし、他にも落ち度があった事象や人間を報道せず、現在進行中の絶対的加害者だけを報道するのは、まったく平等でないし、国民に正しい平等な情報を提供するというマスコミの基本利点の根底さえも覆してしまうと思います。そういう意味で、マスコミは平等な報道をするべきで、世論が盛り上がる今までの報道方法は見直すべきです。
平等発言が擁護にされてしまう世論
例えば、会社のパワハラで上司が捕まった事件があったとして、世論は上司を叩きます。しかし、私たち第三者には情報が全くありません。パワハラを受けた後輩の「日頃の仕事の態度」「仕事への取組み姿勢」「会社の求める基本的な業務の遂行能力」「上司が耐えた時間、回数、内容」これらすべてが提供され精査し、初めて両者の落ち度の振り分けが出来ると思います。前回も述べましたが、当然、パワハラする人間が悪いです。これは絶対です。いくら後輩に落ち度があっても、上司のパワハラの罪は消えません。しかし、上司側の意見を一切聞かないのはまた違う話です。なら「上司は感情を持つな!」という事でしょうか。上司には一切の権利がないのでしょうか。それは平等な判断と言えるでしょうか。その理屈は残念ながら通りません。何故ならここは法治国家だからです。
平等・公平が重要な理由
同じ過ちを繰り返させない為です。正しい原因と対策を講じなければ、被害者も加害者も、また確実に同じ事をやってしまいます。確実にです。お互いに言い分を打ち明け、それをしっかり第三者が聞き入れ、客観的な判断と意見を述べて精査する事で、事件は完全な和解にいけます。そうすれば恨みや禍根も最低限まで減らす事が出来ます。それは事件が蒸し返され、恨みや妬みで周囲が巻き込まれる恐れすら回避できます。平等な判断とは、これ程に重要な意味を持ちます。だから必要なのです。
第三者が感情で個人を非難する危うさ
まず、その情報が正しいかどうかも分かりません。その対象の人物が、誤認逮捕かもしれないし、実は無関係の人間かもしれません。そうなった場合、貴方は間違った対象者に間違った感情を抱き、非難する事になります。それは極めて危険な行為です。感情で、少ない情報で、特定の個人をSNSなどで非難するのは控えましょう。
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